行政代執行が行われる際、必ずと言っていいほど発生するのが、居住者による激しい抵抗です。それは言葉による罵倒であったり、時には体を張った物理的な阻止であったりします。周囲から見れば「なぜそこまでしてゴミに執着するのか」と不思議に思うかもしれませんが、居住者にとってその場所は、誰にも邪魔されない唯一の聖域であり、ゴミはその聖域を守るための盾なのです。行政がその盾を力ずくで取り上げる行為は、彼らにとって魂の一部を引き裂かれるような苦痛を伴います。ある現場では、代執行が始まると同時に、住人の女性が自分の持ち物に覆いかぶさり、「これを捨てるなら私を殺せ」と叫び続けました。その姿は、決してわがままな老人のそれではなく、追い詰められた野生動物のような悲痛な響きを持っていました。このような状況に直面したとき、行政代執行の「正義」とは何かを考えざるを得ません。周辺住民の公衆衛生を守るという正義は確かに存在します。火災の危険や悪臭、害虫の被害を考えれば、放置することは許されません。しかし、一方で、個人の尊厳をどこまで踏みにじっていいのかという問いも無視できません。行政代執行は、対話の完全な決裂を意味します。言葉が届かなくなったとき、国家という巨大な権力が牙を剥く。その痛みは、執行する側にも、執行される側にも深く刻まれます。私たちは、ゴミを運び出す重機の音の陰に隠れた、居住者の絶望の溜息を聞き逃してはなりません。行政代執行という強権発動は、社会がその人を救えなかったことの証左でもあります。必要なのは、執行に至るまでの長い時間のなかで、その人の痛みに共感し、孤独を癒やすための手段を模索し続けることでした。強制力をもって問題を解決したとしても、それは表面的な平穏に過ぎません。本当の意味での救済とは、代執行を必要としない関係性を築くことであり、その失敗を私たちは代執行のたびに噛み締めなければならないのです。
住民の拒絶を越えて執行される行政代執行の正義と痛み